騎虎の勢
魏・呉・蜀の三国の対立は、魏の勝利に終わり、魏は国号を晉(西晉)と改めて天下を統治したが、塞外民族の侵入によって亡び、新たに南方の揚子江地帯に晉(東晉という)が、かつての呉の都建業(南京)を都として成立した。そして北の方の西晉の故地は匈奴・羯・鮮卑・羝・羌・の五異民族、つまり五胡によって占領され、漢民族と対立抗争を続け、約百三十年間に十六の国が生まれたり、亡んだりした。この後、東晉は内乱によって亡び、新たに宋(南朝)が生まれ、以下、斉・梁・陳が相次いで立ち、一方北の方では、鮮卑が後魏(北朝)を立て、以来、東魏・西魏・北斉・北周が相次いだ。この時代を南北朝時代という。 さて、北朝最後の王朝である北周、その宜帝が死ぬと、外戚の漢人楊堅は、後始末のため宮中に入った。この人は外戚であると同時に、人物も立派だったので、総理大臣として、政治を総括していたものだが、自分の国が異民族に占領されていることを、かねがね残念に思い、(折りあらば再び漢人の天下にしたい・・・・・・)と秘かに思いめぐらしていた。そこへ宜帝が死んだ。その息子はまだ年も幼く、あまり利口ではなかったので、うまく奔走して帝の位をゆずらせ(実はムリヤリに奪ったのだが・・・・・・)、正式に隋の国を建てた。時に西暦五八一年、これで北朝は亡びたわけだが、堅はそれから八年後に南朝の陳を亡ぼして天下を統一している。これを隋の高祖文帝という。 この文帝の皇后を独孤皇后という。かねて夫から大望を打ち明けられていたので、宜帝が死亡し、夫がいよいよ北周の天下を奪うため、宮中に入って奔走画策していることを知ると、人をやって言わせた。 「一日に千里走る虎に一旦乗った以上、 途中で降りることはできません(騎虎の勢下ることを得ず)、 途中で降りれば、 食われてしまうでしょう。 虎といっしょに最後まで行かねばなりません。 すでに大事を起こすことに立ち上がられた以上、 途中で止めてはいけません。 必ずや目的を果たすよう、 がんばって下さい。」 堅がこの妻の健気な言葉にはげまされたのはいうまでもない。 皇后は河南の人、北周大司馬である河内公の信の娘だが、信は堅を見込んで、彼女が十四歳のとき嫁にやった。彼女、初めの頃はすなおで、妻の道をよく守っていたが、後に姉が北周の明帝の皇后、長女が宜帝の皇后となるに及んで、次第にいばり出した。 だが、こういう話もある。かつて異民族がその値八百万金という立派な珠玉を持ち込んだことがある。ある人が、彼女に「それを買いなさい」とすすめた。しかし彼女は、 「いま外敵がしきりに侵入しており、 将兵はその防戦につかれています。 玉を買う八百万金もの金があったら、 功を立てた将兵にくれて やった方がはるかによろしい。」 といって、玉を買わなかったという(「隋書」・独孤皇后伝)。とにかく女傑だったことに違いはない。 なお「隋書」には「騎虎」でなく「騎獣」となっている。これは高祖文帝の名が虎なので、わざわざ虎をさけたものだ。ところで一説に、帝は漢人ではないともいう。すると、征服者たる異民族の帝がなぜ漢人を皇后にしたか。それは、文化の低いこれらの民族は、万事を漢人にならい、その文化を取り入れようとしたからで、中国の歴史が示すように、漢民族は異民族の征服者をいつもこうやって同化し――結局倒してしまうのである。「中国故事物語」
